akogina博士登場

司会「お待たせ致しました。本日のゲスト、ブログ研究の第一人者、akogina・sirout博士です。みなさん盛大な拍手でお迎え下さい。(博士をスタンディング・マスターベーションで迎える聴衆)ようこそお越しくださいました。どうぞこちらにお掛け下さい。パシフィック・ウェスタン大学からわざわざご足労下さり、ありがとうございます。早速ですが、博士は今まで『話を聞かない男・地図が読めない女・ブログが書けない俺』『金持ち父さん、貧乏父さん、ブログおじさん、ハイサおじさん』『尻穴からなんか出てきた、あ、ブログだ』などの名著を数々執筆なさっていますが、昨今の日本でのブログブームをどうお考えでしょうか?」
(司会:黒木祐江 訳:戸田奈津子 博士の声:玄田哲章)

日本のブログブームについて

akogina博士(以下 ako)「いやいや、こちらこそお招き頂きありがとうございます。それよりおしぼりを貸していただけますか?客席から結構勢いのいい汁をかけられたものですから。(しばらく拭いた後)そうですね。日本でのブログブームには大きくわけて2つの原因が考えられます。ひとつはブログツールの登場によって敷居が低くなり、ネット初心者でも情報発信がしやすくなった という事だと思います。もうひとつはブログという性質上、他者との繋がりが容易に持ちやすくなったことでしょう。」

黒木「博士は ブログと従来のサイト*2ではどのような違いがあるとお考えですか?」

ako「従来のサイトによる情報は常に書き手依存でした。ブログ以前、情報の取得は良い書き手に出会えるかどうかに懸かっていました。そのためリンク集やローカルブックマークが情報を得るために非常に重要な役割を担っていました。ところがブログの登場以後、エントリというオートマティックな情報の細分化とGoogleのような効率の良いロボットサーチの登場により、情報形態はコンテンツ依存になりました。この"ライター依存"から"コンテンツ依存"への変化をわたしはネット上での最大の変化と考えます。あー、ちんぽ痒い」

黒木「"ライター依存"と"コンテンツ依存"の違いとは具体的にどういう事でしょうか?」

ako「従来のサイトでは全体的な構成・デザインなどの殆ど全てがそのサイトの運営者によってなされていました。そのため、サイト運営者によって、読み手に対するインターフェースに雲泥の差があり、運営者の能力がそのままサイトの見やすさとなり、情報価値に繋がっていました。」

黒木「つまり、サイトの善し悪しは運営者の能力に直結していた ということでしょうか?」

ako「そうですね。サイト中心の情報発信では、運営者は情報の中身、つまりコンテンツだけでなく、その配置、全体のデザインにも気を配る必要がありました。そのため、せっかく良い内容なのに粗雑なデザインのために閲覧の機会を失っているサイトというのも多く見かけられました。つまり"よい"サイト運営には運営者の総体的な能力が要求されるのです。」

黒木「ブログの登場によってそのような状況はどう変わったのでしょうか?」

ako「(7秒間のゲップ後)、失礼、ブログの登場初期では大きな変化は見られませんでした。ご存知のとおり、ブログは当初"web日記"と紹介されたように、構造性の低い文章に時系列が付加されただけだと思われていましたし、実際そのような扱い方しかされませんでした。ブログの語源であるweblogにもそれ以上の意味合いはありませんでした。あ、今オナラ出そう。」

黒木「では、何がブログをブログたらしめたのでしょうか?」

ako「重要なのはそこなのです。ぷっ、。情報の内容が時系列によってまとめられるのではなく、ひとつの小さなかたまり、つまり、エントリとしても機能することを発見した少数の人々によってブログは発展していきました。それまで「情報」とはサイト全体を通して初めて成立するものとして定義されることが多かったのです。これはサイトの出来(情報発信効率)が書き手に依存していたことに由来しています。ところが、"エントリ"という概念の登場によって情報は書き手から遊離し、それ自体が"エントリ"という情報単位として成立することができるようになったのです。これはネットにおけるちょっとした"事件"でした。」

黒木「ブログが登場しなければエントリという概念は生まれなかったのでしょうか?」

ako「いい質問ですね。たしかにブログ以前でもサイトにおける情報は区分化され、個別にアクセスすることは可能でした。あ、勃起してきた。ところが当時はまだ、従来のサイトにおいて、情報に相互的かつ意味的な関連性を持たせることはとても難しかったのです。そのため、サイト内容の一部がサイト全体から遊離することは非常に嫌われました。」

黒木「いわゆる"ディープリンク"問題ですね?」

ako「そのとおりです。サイトが家に喩えられるのも、まさにその点に由来します。サイト内の個々の情報は運営者が苦労して作り上げたサイトの重要な構成物であり、それに勝手にアクセスすることは個人宅に侵入し、物品に触る・もしくは盗むのと同じような不道徳と考えられたのです。このあたりは、産経ニューズとミスタ・吉野の揉め事を参照されればよろしいかと思います。まだ、この時点では、まぁ現在もですが、著作物におけるRightの定義と、ある種の被侵襲的な"感情問題"が混同されていました。」

黒木「"無断リンク禁止"問題もこの"感情問題"と関連しているのでしょうか?」

ako「やはり、そう考えるべきでしょう。彼らはエントリ単位ではなく、エントリを書いている自分自身(もしくはその個人サイト)に情報価値があると考えています。これはブログ登場以前、情報価値イコール書き手であった時代では通用した概念ですが、エントリ単位で情報が読み手に摂取される現代においては時代遅れと言わざるを得ません。あ、しっこ出そう。なので、彼らは自分の書いた内容があずかり知らぬ所で言及されたり、批判されることは自分の体を勝手に触られたり、傷つけられたように感じるのでしょう。」

黒木「ブログの登場はそのような書き手依存の形態を破壊したと?」

ako「完全にではないですが、その傾向は強くなりました。書き手の個性はエントリを構成する数多くのtagのひとつでしかなくなったのです。このようなエントリを中心とする構成が可能になったのもブログがコミニュケーションツールとして発達したおかげです。先ほど述べたように、サイトで情報を発信することは発信者に多くの負担を強いることを意味しました。ところがツールの発達により、デザイン性、構造性、意味配置が標準化され、書き手はコンテンツの作成のみに集中することができ、気軽に情報発信ができるようになったのです。また、このようなブログの発達は同時にエントリに直接アクセスするRSSなどのメソッド・ツールの登場も促しました。」

黒木「え〜、博士のお話の途中ですが、

ここでいったん地元の商工会議所による、"はだか和太鼓"の演奏が披露されます。それでは商工会メンバーのみなさん、お願いします。」
よーーーッ!はっ!!ドン・ドン・ドン・カラカッカ・ドドン・ガ・ドン・カラカッカ・・・