菅野美穂のルックスについて考える

電車内でふと見上げると、何の広告だったか覚えていないが吊り広告に菅野美穂のアップが用いられているモノがあった。
広告に用いられるくらいなのだから通常であれば、広告を見たモノに強い印象、できればそれもポジティブな感情を想起させることが広告というものの代表的な役割かと考えるのだが、その”モノ”はそのような機能を既に逸脱しているように思われた。それは他でもなく菅野美穂の顔自体にである。

普段、我々が人の顔を見る時、

想起される感情というものは大概においてある程度なじみのある言葉や想念に変換できるものだ。
それは「カワイイ」であったり、「美しい」であったり、はたまた「キモ・・・」であったりするわけだが、
広告という媒体を通しての芸能人などは過度にこのようなありきたりな概念に集約されることをむしろ狙っている場合が多い。
もちろん、その殆どはポジティブなものだが、中には強い印象を観た者に残すため敢えて一部の鑑賞者が「不快」に思えるようなイメージをモデルにかぶせて広告のなかに織り交ぜることがある。
だが、しかし、菅野美穂の場合は違うのだ。
これは広告を作成した者の意図を遥かに凌駕した「ナニか」が菅野美穂のルックスには潜んでいるようにしか私には思えないのだ・・

昼の顔、夜の貌

人の顔というものは主に大きくわけて二つあると思うのだ。言うなれば昼の顔と夜の貌があり、その二つを我々は何気なしに読み取って自分のうちに収めていると思うのだ。このうち昼の顔とも言える部分はっはきりとした意識の俎上に乗せられ、その人物に対する我々の姿勢が決定されていく。
「かわいい」「うつくしい」「キレイだな」と思えば、そこにはプラスフィードバックが働き、「キモいなぁ」「ぶっさいくやなぁ」「う・・怖い」だったりするとそこにはもちろんネガティブなチカラが働くだろう。しかし果たして人の顔とはそのような表層的なものだろうか?
私はそこにもうひとつの「夜の貌」があると思うのだ。