メディアにおける「ふれあい濃度」 − 妄想コラム

ぼくらには一日に摂取すべき人との「ふれあい量」というのが決まっていて、それを摂取しないと精神的な一種の飢餓状態になる。
で、そうならないためにいろんな方法を用いて他人との「ふれあい」を試みる。
もっとも"濃い"ふれあいは直接会うことなんだけど、これは摂取方法として純度が高い反面、コスト・リスクもバカにならない。
そこで、ほとんどの場合、電話とかFAXとかメール、手紙のような代替方法を通じて「ふれあい」を摂取していかなければならない。
だけど、これらのメディアツールは含有する「ふれあい量」がそれぞれ異なっている。
ある人にとってはメールや手紙、FAXなんかよりテレビ電話・電話が最も「ふれあい濃度」が高いだろうし、別な人にはIRCやチャットの方が「ふれあい濃度」が高いかもしれない。*1
で、重要なのは「ふれあい濃度」が低いツールでは1日に必要な「ふれあい量」を摂取するのに時間がかかるということ。
現代の人たちが始終、携帯メールをいじってる原因は手間/経済的コストが安いものの、「ふれあい濃度」が低いために摂取時間が増えざる得ないためではないかなーと僕は思っている。つまり3時間メールするよりその人と会って10分話すほうが充足されるということ。
と、思ったけど、今の人たちは通常の生活をしている限り、必要摂取量は維持されてるハズなので関係ないのかなーとも思う。
ただ、ひきこもりの人とかがチャットや2chのカキコミにハマってしまうのはやっぱり、摂取すべき「ふれあい」をチャットや2chという「ふれあい濃度」の低いメディアツールを使って摂取しようとしてるためなのかなぁとも思う。
じゃぁ、「ふれあい量」が足りない飢餓状態になると、どーゆう状態になるかという話はまたの機会に(って?)。


ちなみに、テレビやラジオなんかの一方通行型のメディアも僅かながら「ふれあい」を含有してるよ

*1:基本的に「ふれあい濃度」を決めるのは、そのツールによってどれくらい「相手」の情報を得られるか 逆にいえば相手に「自分」の情報を相手に伝えられるか ということだと思う だから、「ふれあい濃度」が低いもの程、伝えられる情報が表層的になる