「折り返し地点ですかね・・・」

ある朝、目が覚めると違う世界にいた。いや、違う世界だと言っても、見た目は昨日まで生きていた世界と何ら変わりがなかったので、最初はそうだと気づかなかった。妻の顔も息子の顔も昨日となんら変わりなかったし、朝食の味も別段変化している様には思えなかった。しかし、それでも何かが変化している。そのような指摘できない、なんとも言いようの無い違和感を抱えながら私はいつものように出社するための準備を始めた。今朝も慌しく洗面台ではなく出社途中に車中で髭を剃る。とは言え、鏡なしではやはり具合が悪い。
やがて、いつもどおりに会社の地下駐車場に車を止め、出社までのわずかな時間を使って近隣のコンビニでコーヒーを買いに行く。ついでに昼食用の惣菜やパンなども買い、レジにて会計する。
「お箸はラソンで喩えるといくつお付けしますか?」
私は一瞬なんのことか分からなかったが、何かの聞き違いと思い直し、
「1膳」
と、金を払いながら答え、そそくさとコンビニを出た。
午前中の業務は私の違和感とはよそに、なんら変わり映え無く終わり、下請けの事業所まで打ち合わせに新宿までタクシーで移動するためエントリーホールまで降りる途中、同期の稲葉とエレベータで乗り合わせる。
「よ、稲葉、久しぶり。」
「ああ、久しぶり・・・。何階?」
「え?」
「だから、ラソンで言うところの何階に行くんだ?」
「え、ああ、1階でいいよ、打ち合わせで新宿まで行くんだ」
「・・・。」
俺は気まずさから階数表示を見上げながら、1階に辿りつくのを待った。
そのままエントリーホールを出てから、近くのロータリーでタクシーを待っていると程なく車が近づいてきた。
「お客さん、どこまで?」
「ああ、えーっと、新宿駅の西口の方まで」
「あ、マラソンで言うとどの辺?」
は?マラソン?この運転手は何を言ってるんだ。私はそう訝しんだが、そんな事よりも打ち合わせの時間に間に合うことを懸念してたので、
「西口の広場前で」
と答えただけで、その不審な運転手の一言については深く考えないようにした。
そして何事もなく、2、3時間で打ち合わせも終わり、再びタクシーで社内へ戻る。戻ってから程なく上司に呼ばれる。おそらく打ち合わせについてだろうと、私は相手方の出した予算について頭の中で整理しながら上司に伝える適当な言葉を考えていた。
「で、どうだね、先方の話は?」
「や、それがですね、予算的にはあちらの方はだいぶ下げてきていると言ってるんですが、なんせ期日が期日なんで」
「どうだね、君から見た感じ、このプロジェクトはマラソンでいうところのどの辺かね?」
何故、またマラソンなのだ。私は再び奇妙な不安に苛まれながらも、今朝感じた違和感について少し納得がいく気がした。
「え?まぁ、折り返し地点ですかね・・・」
そう答えると上司は満足したように鼻を鳴らし、先日提出した企画書を差し出した。私はそれを受け取り、今の上司の言葉を反芻させながら自席へと戻る。
その日は残業もなく、今日感じた不条理な不安を振り切るかのようにして、私はそそくさと帰宅するため再び車で自宅へ向かう。
帰宅すると、妻が
「あら、いつもより早いわね」
と出迎える。何も変わっていない。やはり気のせいだろうか?
妻と子とともに夕食を終え、風呂に入ったあと、自室へ戻ろうとする私を妻が引き止める。
「ねぇ最近、ヒロシがいじめにあってるみたいなの」
「本人に聞いてみたのか?」
「だって、あの子そういうこと言いたがらないし・・・」
「学校の先生とかには連絡は?」
「それがまだ・・・」
「じゃあ、いじめられてるかどうかもわからないじゃないか」
「だって時々怪我して帰ってくるし、そういう時に限って口数が少ないし・・・」
「それじゃどうしようも無いじゃないか」
「だから、あなたに訊いてるんじゃない?ねぇこういう場合ってマラソンで喩えると・・・」
まただ。またマラソンだ。私は今日一日中溜め込んだ疑問を一気に吐き出すように大声で怒鳴った。
「なぜ、マラソンなんだ?ええ?おまえら揃いも揃って!なんなんだ、マラソンラソンて、一体なんなんだっ!!」
「ちょっとアナタ、いきなり怒鳴らないでよ、あの子に聞こえるじゃない・・・!」
私はかぶりを振りながら妻を振り切ると、自室へ戻ろうと洗面所の前を通った。が、私はそこで図らずも違和感の正体に出会ったのだ。
周りの人間が変化したわけでも、世界が変質したのでもない事を、その瞬間私は悟った。
そう、洗面所の鏡の向こうから私を見つめ返していたのは、パンチ佐藤だったのだ・・・。