恐怖の存在 - Deep Isolated (上)

以下の内容は1994年 現代妄想社出版 阿漕田クニオ著『ブログのへとアレ - ブログに対する民俗学的アプローチ』に収録された阿漕田氏とA.Sirouts博士の対談の内容を転載したものです。
まず、本エントリの"Deep Isolated"の話題に移る前に非コミュのコミューン形成について二人は語り合ってます。まずは、その部分からお読み下さい。

・・・なるほど、赤い洗面器を頭にのせた男の話はそのようなオチが待っていたワケですね。
- Sirouts:ええ、そのとおりです。
- 阿漕田:博士ならではの発想ですね。ところで、博士は去年の学会において、コミュニケーションに関する研究で非コミュという存在を発表されましたね?
- Sirouts:ええ。
- 阿漕田:民俗学者としての私からみても、非常に興味深い内容だったのですが、博士の学説では同じコミュニケーション属性を持つ者同士でコミューンを形成する傾向があるというお話でしたが、コミュニケーションを持たない・若しくは殆ど持たない非コミュもコミューンを形成するのでしょうか?
- Sirouts:ははは、なるふぉど、民俗学者らしい俗な質問ですね。
- 阿漕田:お恥ずかしい限りです(核爆)。
- Sirouts:まぁ、下らない質問ですが、お答えしましょう。ところで先程からあなたの話の最後に(核爆)と表示されるが、非常に不快なので止めて頂きたい。
- 阿漕田:・・・。
- Sirouts:「・・・。」じゃねぇよ。お前はゴルゴか?ハイかイイエで答えろ、あ?
- 阿漕田:・・・は、はい。
- Sirouts:(何事も無かったかのように)では、質問の件ですが、これは非常に奇妙に聞こえるかも知れませんが、コミュニケーションを持たない・もしくは持てない非コミュたちもコミューンを形成します。言うなれば非コミューンを作ります。あ、オレ今ウマいこと言ったな。
- 阿漕田:非コミューンですか?
- Sirouts:ええ、彼らは一見、コミュニケーション欲求を持たないように見受けられますが、実際は通常の人々と同じように、もしくはより強いコミュニケーション欲求を潜在的に持っています。
- 阿漕田:ほうほう。
- Sirouts:ほうほうってお前はフクロウか?で、彼らはそのようなコミュ欲求とコミュ機会のギャップで悩んでいる訳ですが、そのような彼らが薄い関係性を保ったまま、コミューンを形成することがあります。
- 阿漕田:それはどのようなコミューンでしょうか?
- Sirouts:これは日常でもよくあることだと思うのですが、近所でなんとなく顔は知っていて、軽く会釈程度の挨拶はするものの、名前や詳しい素性は知らない顔見知りがいたりしますよね?
- 阿漕田:ええ。
- Sirouts:彼ら非コミュは深い関係性を嫌います。まぁ、本当は強い関係性から精神的ダメージを受けることを防ぐために、そのような手段を致し方なく採っているわけですが、人並みにコミュ欲求を持つ彼らは、ダメージも受けず、さりとて完全に断絶しているわけではない、"近所の顔見知り"のような、ぬるま湯のような希薄な関係性を築くことを好みます。そのような関係性が築きやすい空間・場所に非コミューンは形成されると思われます。
- 阿漕田:具体的にはどのような場所でしょうか?
- Sirouts:今からそれを説明すんだよ、タコ。人の話の腰を折るな。てめぇの腰にブラさがってるお粗末棒を俺様が折ってやろうか?ああぁ?
- 阿漕田:またまた、ご冗談を(核爆)。
- Sirouts:あ、また言った。今度言ったらぬっ殺す。具体的には図書館、通勤電車、常連が多すぎない非オシャレ系の喫茶店などが挙げられます。ただし、最近のまんが喫茶はやや距離が有りすぎて非コミューンを形成するにはあまり適切ではありません。
- 阿漕田:意外ですね、通勤電車ですか。
- Sirouts:日本は欧米とは異なり、始業時間が統一されていることが多く(G/N比:0.001)通勤電車では、同じ時間帯に同じ人々が乗り合わせることが多く、同じ顔ぶれが揃うことが多いようです。あの、他人と知人のちょうど中間のような、だけど言葉をかわす必要性の無い空間が非コミュには快適なのです。むしろある意味、そのような生活スタイルに適応した結果、非コミュが誕生したと言ってもいいかもしれません。いわゆる儀礼的無関心がコミュ形態を侵襲し、一般化された結果とも言えます。


後半へ続く。